6+ ANTWERP FASHION アントワープ・ファッション展

オープニングトーク「アントワープを語る」

第一部
アントワープ・ファッションの揺籃期

ゲスト:ヒェールト・ブリュロート
コーディネーター:高木陽子(文化女子大学教授/本展監修者)

高木:コーディネーターの高木です。オープニングトーク「アントワープを語る」を始めたいと思います。

アントワープ・ファッションは、約25年前に突如ファッション界に出現し、パリを中心とした既製服の生産と流通の仕組みに揺さぶりをかけました。
アントワープ・ファッションとは何であったかを概観するために、本展覧会では、第一部にデザイナーのほぼ全員が卒業しているアントワープ王立アカデミーの教育成果を展示し、第二部にはいかにアントワープ・シックスとメゾン・マルタン・マルジェラが誕生したか、第三部は、引き続き世に出ていった次世代デザイナーたちを、各デザイナーの象徴的な作品で紹介します。
さらに、スタイリスト、メイク、グラフィックデザイナー、カメラマンなどのクリエーターとのコラボレーションによって強化されたイメージ、ショーの映像も展示しています。

日本において、アントワープ・ファッションは、本国ベルギーよりも広く受け入れられていると言われることがあります。それは、店舗の数や規模を比較してもうなずけるところです。
それでは、なぜ、私たちは、アントワープ・ファッションに共感を覚えるのでしょうか。
その創造の秘密はどこにあるのでしょうか?

本日のトークでは、これらの問題意識をもとに、三つのテーマをたてました。
第一部「アントワープ・ファッションの揺籃期」、第二部 「アカデミーのカリキュラム」、第三部 「日本における受容」です。現場にいた証人をお招きし、語ってもらおうというのが本日のトークの趣旨です。

それではさっそく、第一部に入りましょう。
第一部では、アントワープ6とマルタン・マルジェラの誕生を、友人としてプロモーターとして見てきたヒェールト・ブリュロートさんをお招きしました。
アカデミーのショーの演出を四半世紀続けてきたほか、FFI(フランダース・ファッション・インスティティート)の創設者の一人で、本展覧会の会場デザイナーです。
靴のセレクトショップ「ココドリロ」のオーナーで、ベルギーデザイナーのみの服をあつかった初のセレクトショップ「ルイ」の元オーナーでもあります。
初期アントワープ・ファッションの証言者としてはもっともふさわしい方の一人でしょう。

それでは、「アントワープ・ファッションの揺籃期」についてお話し頂きます。

ヒェールト・ブリュロート

ブリュロート:皆さんこんにちは。
ヒェールト・ブリュロートと申します。本日はアントワープ・ファッションの歴史において私が果たした役割についてお話しさせて頂きます。日本の80年代のファッションの革命が、ベルギー・ファッションの初めての成功にどのような影響を与えたのかという点について説明したいと思います。

私がアントワープのファッション・デザイナーの第一世代と出逢ったのは、1984年の数年ほど前でした。しかし既に当時私は彼らのうちの多くを知っていました。というのも、彼らは皆アントワープのアカデミーで学んでいて、べルギーのオリジナル・ファッションを発信するために創刊されたFlairというベルギー初のファッション雑誌で仕事をしていたからです。またその頃、彼らがアントワープで最も流行っていたクラブで踊っているのをよく見かけました。

彼らは仲の良いグループで、また彼らは共通した高いレベルのファッションを目指す姿勢を持っていました。当時彼らが関心を持ち、また尊敬していたのは、クロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレー、ジャン=ポール・ゴルチエ、ヴィヴィアン・ウエストウッド、山本耀司、川久保玲でした。

彼らはトータル・コンセプトとしてのファッションとショーについての考え方を、それらのデザイナーと共有していました。単にコレクションをプレゼンテーションするだけではなく、そのコレクションがどのようなコンセプトで代弁されるかということを熟慮していたのです。

ファッションショーと展示会の招待状、カタログ、パッケージ、そしてショー自体について、彼らは細部に至るまで自分たち自身でよく考えていました。

それに続き、彼らはどのようにコレクションを構成するか、そしてまたいかに技術に関する知識と理解が重要であるかといったことを学びました。彼らは社会や文化が大きく変化する時代を生きていました。そういったことは、その後の彼らの成功の大きな要因となります。

日本のデザイナーは当時、80年代初頭ですが、最も前衛的で、私たちのファッション観を変えたのみならず、一般的なスタイルを変えてしまいました。ファッションのクリエーション、販売に対しての彼らの革命的なアプローチは、私たちのショッピング経験を根本的に変えました。

ファッションをその原形から再構築することで、川久保玲や山本耀司といったアヴァンギャルドなファッション・デザイナーたちは、新しいコンセプトを打ち出したり、また今までの構造への実験的なアプローチを行ったりすることにより、既存のファッション・システムを打ち破ることができる可能性を、世界中の若い世代のデザイナーに証明してみせました。

そして、1985年ベルギー政府はファッション・デザインの産業に投資をしたいという思惑もあり、この若いベルギーのデザイナーたちを日本に送ることにしたのです。彼らは日本を訪れることになりますが、それは彼らにとって正に夢が叶った瞬間でした、なぜなら彼らは日本のファッション・デザイナーの哲学、現代的なコンセプト、そして彼らのバックグラウンドなどを肌で感じることができたからです。

東京という未来的な雰囲気の都市で、また新たなショッピングスタイルを目の当たりにしながら、彼らはコムデギャルソン、ヨウジヤマモト、ニコルのショーやショップを見学しました。そういった経験はこの若いベルギーのデザイナーたちに大きなカルチャー・ショックを与えました。

非常に洗練されたディスプレイや店舗設計、草分け的なコレクション、西洋風もしくは東洋風にアレンジした非常に美しいアクセサリー、素晴らしいプリント、そして非常に親切でフレンドリーな販売スタッフ、そういった日本のデザイナーの現代的なフラッグショップを訪れた経験は、彼らがその後それぞれビジネスを展開して行く上で、非常に大きな影響を与えました。

私はこの仲の良いグループと約二週間過ごした訳ですが、その日本での滞在の中で私は彼らが将来それぞれ独自のレーベルを持つデザイナーになる才能と潜在能力を備えていると判断するに至りました。彼らはファッションに対しての独自のビジョンを持っており、それは溢れ出る熱意、非常に高い次元の目標と結びついていました。私は彼らの将来の成功を確信しました。

帰国後、彼らのために何か現状を打開するようなものを組織したいという気持ちが少しずつ大きくなっていきました。彼らが自分たちの名前で国際的なキャリアを歩むことを熱望しており、そのための準備も既にできていることを感じ取ることができました。彼らは私の考えに賛同し、私がその組織を作ることに絶大な信頼を寄せてくれたのです。

彼らが国際的に活躍したいと決めたことを感じた私は実際にロンドンに目を向けました。実際当時のロンドンでは、ジョン・ガリアーノ、ボディ・マップ、ジョルージナ・ゴッドレイ、スコット・クローラ、スティーブン・ジョーンズ、キャサリン・ハムネット、ヴィヴィアン・ウエストウッドなどといったデザイナーがアヴァンギャルド・ファッションを先導していました。そこで私はロンドンで勝負に出ることに決めました。

当時はまだベルギーのファッションというものは存在しておらず、またベルギーという国はファッションの不毛の地として見なされていました。そのため、例えいくら彼らの成功の可能性が眠っているとしても、それを海外のプレスやバイヤーに納得させることは非常に難しいことであることを私は理解していました。ありえないようなフランダースの名前を持ち、ファッションの歴史を全く持たない国からやって来た、このデザイナーのグループを彼らに紹介することは、取り掛かることですら不可能な仕事であるように思われました。

こういった背景のもと、彼らに「アントワープ・デザイナーズ」というグループ名を名付けることを思い付きました。それにより、彼らの難しい名前の問題を解消し、またより注目を集めることができるような画期的な新たなアプローチをもたらすことができました!
一つの名のもとに集まったファッション・デザイナー集団という概念は当時としては新しいもので、刺激を受けたプレス関係者は彼らのことを話題にしました。プレス関係者により考案された「アントワープの6人」というグループ名は一つのブランドネームとなり、後に証明される通り彼らの成功の発端となりました。

1986年ロンドンで行われた英国デザイナー・ショーに、彼らはベルギー人として初めて参加しました。彼らはコレクションを強烈な展示で発表し、その衝撃は非常に大きなものでした。その衝撃を受けて、世界中の名立たるショップが直ちに彼らの作品を買い付け始めました。また彼らのためのプレス・エージェントもみつかり、世界中のファッション関係のプレスを網羅することとなりました。

私はここでひとつ述べさせて頂きたいことがあります。それは当時ロンドンで初めて海外からベルギー人のデザイナーにオーダーをしてくださったのは、バーニーズ・ニューヨークだったということです。バーニーズ・ニューヨークはその後もベルギーがファッション界において重要な地位を確立していくことを後押ししてくれました。バーニーズには大変な感謝の気持ちを述べさせて頂きたいと思います!

もちろんこのベルギー人のデザイナーグループが瞬く間に成し遂げた成功は、彼ら自身の才能、ビジョン、努力などによってもたらされたものでもあります。自分自身への創造的な投資、健全な意味での自己に対する自信や自己批判、グループ内での親密な関係、そういったものも成功への道程を加速させました。

またデザイナー達が強烈なイメージを作り出しファッション界におけるベルギー人のファッション・デザインの地位を確立して行く中で、彼らの周囲にはそれを支える若いプロフェッショナル集団の存在がありました。私はそのプロフェッショナル集団の中の一人とみなされると思います。
アントワープのクリエイティブなマインドを持った人々は皆、コレクションを理想的に具現化するためには、より幅広いグループと共に仕事をすることが必要であると認識していました。

パトリック・ロベーン、ロナルド・ストゥープス、リュック・ウィラムといった才能に溢れた写真家、メイクアップアーティストのインゲ・グロニャール、グラフィックアーティストのアン・キュリスやパウル・バウデンス、またデザイナーを取り巻くこれらの素晴らしいシステムはこの希有の成功に大きな貢献をしました。

1985年に私はこのファッションの才能に溢れるデザイナー達と共に日本で滞在生活を送ることができた訳ですが、この素晴らしいタイミングに彼らのそばにいることができたことは非常に幸運であったと私自身感じています。
彼らに対しては、単にファッション産業のためだけではなく、彼ら自身の純粋なコレクションを創造することを訴えました。彼らは私の考えを受入れ、彼らをひとつのグループとしてロンドンのファッションシーンに送り出すというコンセプトについても、彼らは私に万全の信頼を置いてくれました。

数シーズンに渡りこの成功は飛躍を続けますが、1988年の秋に私たちは彼らのプレゼンテーションの場をパリに移すことに決めました。外国人のデザイナーを暖かく受け入れることで、当時この素晴らしいパリの街は世界的なアヴァンギャルド・ファッションの首都と言える場所へと成長を遂げていたためです。「クリエイターズウィーク(La semaine des créateurs)」の期間中は、外国人の彼らも若いフランス人デザイナーのすぐ隣で自分自身のコレクションを発表し、販売することができました。

しかしパリで二シーズンを終えると明らかになってきたことがありました。それは「アントワープの6人」のそれぞれのデザイナーが方向性の違いを見せ始め、グループの存在にとらわれることの必要性と現実味が無くなり始めたということです。1989年のパリのメンズコレクションの期間に、ディルク・ビッケンベルヒスが自身のメンズウェアのみのコレクションを発表し、彼はグループを去りました。

発音が非常に難しいフランダース出身のデザイナー(ディルク・ビッケンベルヒス)の名は、ファッション界で知れ渡ります。そのサクセスストーリーはファッションの歴史のひとつとなります。

1987年に行われた「アントワープの6人」の第二回目のプレゼンテーションの時のことですが、ロンドンに出発する前夜にアン・ドゥムールメースターが私のことを呼び出しました。彼女は初めてのフルコレクションを私にプレゼンテーションしたのです。
彼女のアトリエを訪れると、そこには強烈な才能を感じさせる新人デザイナーのレーベルのコレクションがありました。それを見て即座に、私はベルギーのファッショデザイナーの服を中心的に販売するようなショップをアントワープにオープンすることを決断しました。

6ヶ月後の1987年9月に、ショップ「ルイ」がオープンしました。このショップでは、アン・ドゥムールメースター、ディルク・ビッケンベルヒス、ディルク・ヴァン・サーヌなどを、また後年にはマルタン・マルジェラを扱いました。

このショップは私たちにとっての二番目のショップとなりました。なぜなら私たちは1983年に既に「ココドリロ」というデザイナーズの靴を扱うショップをオープンしていたからです、そこではマルタン・マルジェラ、ディルク・ビッケンベルヒスの初めての靴のコレクションを扱いました。そこには日本人デザイナーの素晴らしい靴も置いてありました。それはトキオ・クマガイです。

オープンしてから数年経つと、ルイは単に商業的な成功を収めるだけにとどまらず、多くのファッション中毒者がアントワープを訪れる理由としてこのショップを挙げるような状況を作り出しました。この小さなショップはファッション界で世界的な名声を得ることになりました。また、ベルギーのファッション・デザインについての最新の情報を収集するために、海外から多くのバイヤーやプレス関係者が訪れました。

1985年私はアカデミーに招待され、年度末のファッションショーの学生達のコレクションのプレゼンテーションをサポートすることになりました。

まず学生達にキャットウォークの上でプレゼンテーションされた自分自身のコレクションをどのように捉えているか判断させます。そして、彼らがそこで洞察したものをより実現できるように、振り付け、ライティング、音楽の提案をすることで彼らのサポートをする事が私の役目である。私はそのように考えました。

この判断を下していく過程において、彼らが心の中で本当に望んでいることを発見し、また彼らがコレクションやプレゼンテーションについて感じていることをよりよく表現することを助けることを目的として、しばしば私と学生の間で親密な関係が築かれました。
この親密な関係は今も続く刺激的な友情を私たちにもたらしました。と言いますのも、彼らとは一年生の時に出会い、そのままアカデミーでの四年間を見守り続けるわけですから。

アカデミーを卒業した後も彼らは私に会いに頻繁にルイを訪れました。私たちはファッション、ビジネス、ゴシップの話題などについて語りました。当時ルイを定期的に訪れていた若いデザイナーの中には、ラフ・シモンスがいました。彼は工業デザインを学んだのですが、私にとっては素晴らしいスパーリングパートナーのような友好的な議論をぶつけ合う事ができる存在でもありました。最も極端な形での新しいアヴァンギャルド・ファッションについてなど、私たちは途方もなく長い時間議論を続けました。

このようにしてルイはFFIのような存在となりました。それはリンダ・ロッパ、パトリック・ド・ムンク、そして私自身が実際にFFIを立ち上げるアイディアと可能性を導きだす以前のことでした。

その後、ルイは次世代の多くの若いベルギー人デザイナーの作品を加えました。例えばラフ・シモンス、A.F.ヴァンドヴォルスト、ヴェロニク・ブランキーノ、ユルヒ・ペルソーンス、オリビエ・ティスケンスなどです。もちろんショップは若い学生には常に門戸を開いていました。ベルンハルト・ウィルヘルム、ペーター・ピロット、三木勘也などです。

しかし20世紀の終わりに入ると世界のファッションを巡る状況は変化し始めました。ファションのグローバル化が進む中で、ルイも外国人のレーベルを加えることになりました。フセイン・チャラヤン、バレンシアガなどです。

新たな「モードナシー(ModeNatie)」プロジェクトの建設現場での仕事に精一杯取り組む一方、私はショップの運営をエネルギー溢れる若手に引き継ぐべきであると判断しました。このようにして2001年にルイの所有者は変わることとなります。

私の個人的なショップアシスタントであった人物、彼は10年間私のために働いてくれたのですが、彼がショップの運営を引き継ぎました。 それ以降も、ルイはファッション界にいて非常に重要なショップであるという印象を与え続けており、相変わらず健在のベルギー人デザイナー達の作品、そしてそれと共に現代的なファッションのコレクションを提案し続けています。

2002年にはFFIがオープンし、アントワープという古い都市に新たなファッションの中心地への扉が開かれました。このプロジェクトはモードナシーと呼ばれ、アカデミー、新たにできたアントワープ州立モード美術館とその膨大なアーカイブ、FFIを一つの建物の中に統合するものです。

このプロジェクトによって、私たちは発想、調査研究、創造性といったことを交流させる雰囲気を創り、またベルギーのファッション・デザインの新たな中心部となるポテンシャルを用意しました。めまぐるしく変化し続ける現在のグローバルファッションの世界において、私たちはこのようにしてファッション界におけるアントワープの地位を保とうと取り組んでいます。

第一部:アントワープ・ファッションの揺籃期

第二部:アカデミーのカリキュラム

第三部:日本における受容

質疑応答


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10th ANNIVERSARY