インタビュー
野平一郎
ホリガーの《スカルダネッリ・ツィクルス》を語る
©Priska Ketterer
コンポージアム2017では、オーボエ奏者、指揮者、作曲家として活躍するハインツ・ホリガーを「武満徹作曲賞」の審査員に迎え、作曲家ホリガーの集大成といえる《スカルダネッリ・ツィクルス》(1975〜91)を日本初演します。 ホリガーに精通する作曲家・野平一郎氏に、作品の魅力、聴きどころをうかがいました。
(2016年12月 東京オペラシティ文化財団)
── 野平先生はホリガーとともに彼の作品を演奏されたこともあり、また2014年には、東京藝術大学大学院の作曲科のゼミで《スカルダネッリ・ツィクルス》を半年間取り上げられています。
僕はもともとホリガー・フリークなんです。きっかけは彼のオーボエに魅了されたことからですが、その後、ホリガーが指揮するシューマンのシンフォニーやシェーンベルクの室内交響曲に夢中になり、同時に作曲家ホリガーに強い関心を持つようになりました。
音楽家ホリガーの全体像を見るとき、その中心的な存在と言えるのが《スカルダネッリ・ツィクルス》です。極めて充実した時期の作品であるだけでなく、戦後の音楽史のなかでも重要なサイクルの一つだと思います。
ホリガーには作曲の師が二人いました。一人がシャンドール・ヴェレシュ。ヴェレシュが戦後、ハンガリーからスイスに避難してきたことからホリガーとの接触が生まれます。そしてもう一人がピエール・ブーレーズで、ブーレーズがバーゼルで教えていたときに師事しています。Philippe Albèraとのインタビューでホリガーは、「ヴェレシュから古典的な構造や対位法的な感覚を、ブーレーズから和声の意識や音色感、そして仕事に対する規律を学んだ」と述べているのですが、《スカルダネッリ・ツィクルス》を細かく見ていくと、この二人から学んだと述べていることが非常によく反映されていることがわかります。ホリガーはイマジネーションに富んだ人で、誰とでもうまくいく、というタイプではないのですが、この二人の師には徹底して敬意を払っているところも興味深いです。
── 大学院のゼミで、学生とともにこの作品の楽曲分析を行うことで、彼らに伝えたいと思われたことは何ですか?
最初のアイデアから実現までの作曲のひとつの道筋が、しっかりこの曲の中にあることを勉強してもらいたかった、というのが一番です。ホリガーがブーレーズから学んだという「仕事の規律」ですね。自分の頭のなかに漠然とあるアイデアを実現していくための方法論をブーレーズが授けてくれた、とホリガーは語っているんですが、このツィクルスを分析していくことで、それをたどることができればと思いました。
── この作品はフリードリヒ・ヘルダーリン*の詩をテクストにしています。「スカルダネッリ」とは、精神を病んだヘルダーリンが使用したペンネームということですね。
ヘルダーリンは30代半ばからテュービンゲンの塔にこもって世捨て人のような生活を送るのですが、その間の詩作ではペンネームや架空の日付を記しました。「1940年3月9日、あなたの忠実なしもべ、スカルダネッリ」といったように。それまで『ヒュペーリオン』のように燃え立つような詩を書いてきた詩人が、塔に閉じこもり、ひたすら四季を詠む。しかもメーリケのような親しい友人が来る時にしか詩を書かない。そういう後半生を送るわけです。
ホリガーはシューマンにも関心が強く、またホリガーのオペラ『白雪姫』のテクストは、スイスの作家ロベルト・ヴァルサーですが、この人も精神を病んでいました。ホリガーは非常に明解なエスプリをもった人で、作品にも何一つ不明確なものがないのですが、そういう明晰な人ほど、理性で解決できない狂気的なものに惹かれるのかもしれません。
ホリガーは、《スカルダネッリ・ツィクルス》で、詩と音楽の連携に取り組みつつ、ヘルダーリンの伝記のように、詩人の人生まるごとひっくるめて仕事をした、という言い方をしています。実際、テュービンゲンを頻繁に訪れ、詩人についての様々な書籍を読み通したようです。
©D.Vass
── 「伝記」というのはどういうことでしょうか?
ヘルダーリンは37歳から塔にこもり、73歳で亡くなったのですが、そのような生涯の出来事も作品に投影されているんです。この37と73という「ヘルダーリンの数」は、《スカルダネッリ・ツィクルス》の随所に、例えば♩=37のメトロノーム記号や73小節の曲などとして現われます。また、ツィクルスのなかで最後に作曲された「葬送のオスティナート」は、モーツァルトの《フリーメイソンのための葬送音楽》にもとづく曲ですが、前半が37小節、後半を含めて全体が73小節をとります。
ヘルダーリンの詩は四季をうたっているものの、抑揚もなく、自然を諦観しているような世界です。以前パリで演奏されたとき「まだ人間も存在しないエデンの園のような自然のありよう」と解説に書かれているのを読んで、なるほど、まさにそういう感じだな、という印象を持ちました。《スカルダネッリ・ツィクルス》の静謐な美しさは、まさにここからきているように思います。
*フリードリヒ・ヘルダーリン(Friedrich Hölderlin 1770〜1843)
ドイツの詩人。代表作として、長編小説「ヒュペーリオン」がある。ニーチェが愛読していたといわれているが、死後はほとんど忘れ去られた存在であった。しかし20世紀に入り高く評価され、ハイデガー、アドルノ、ベンヤミンといったドイツの哲学者・思想家に影響を与えた。ブラームス、R. シュトラウス、レーガー、ブリテンのほか、多くの現代作曲家がその詩をもとに作品を創作していることでも知られる。
── 今回が日本初演となる《スカルダネッリ・ツィクルス》は、ソロ・フルートのための《(t)air(e)》、小管弦楽のための《スカルダネッリのための練習曲》、ヘルダーリンの詩による無伴奏合唱のための《四季》の3部分から成っています。作品の魅力、聴きどころについてお聞かせください。
一言でいうと、美しく、透明な響きであるところですね。こんなに複雑な作り方をしているのに、ここまで澄んだ響きが生まれるのか、と驚くばかりです。そして最後までクライマックスに至ることのない、虚無の音楽といったらいいかな。人を鼓舞したり、燃え立たせたりする音楽ではないのに、2時間半聴いていても不思議と飽きることがないのですね。これはツィクルスを構成する23曲それぞれが多彩で、その多面性がとても魅力的であることからだと思います。ホリガーの作曲のパレットをつぎ込んだ、一つ一つの響きがホリガーの総決算のように感じられます。
ホリガーはよく「自分の根っこはシューベルトにありシューマンにある」と述べていますが、このツィクルスにはロマン派の激情ではなく、むしろ抒情、諦観みたいな部分が感じられます。
── 演奏困難として知られ、特に合唱には微分音による無伴奏の超絶的な技術が求められている作品です。
一つ一つに厳格な作曲法を用いて、表現を限界まで引き出そうとしたために、演奏家を極限まで追いつめる過酷さがありますね。例えばカノンの同じ音型を1回目は半音、2回目は四分音で、3回目は八分音のシステムで演奏する、というようなことが出てくるのですが、半音のシステムではppで「表情なく」とあって、八分音のシステムでは「表情豊かに」と書かれていたりするわけです。ヴァイオリンで微分音を弾くとなると、ちょっとヴィブラートをつけるだけで隣のところに行ってしまいますから、「表情豊かに」は不可能に近い指示です。合唱にも「息を吸いながら歌う」「息を吐き切って、肺を空にした状態で歌う」「音がほとんどない状態で歌う」とか、極限状態での演奏指示が書かれています。これほど人間性を否定することをしておきながら、出てくる音楽は、決して人間の生理を逆なでするものではなく、むしろ崇高なまでの美しさが感じられるところも不思議です。
ホリガーにとって70年代は、極限を追及するがあまり演奏拒否に遭うこともあり、苦闘の時代だったようです。そのなかで《スカルダネッリ・ツィクルス》を書くことで、苦しみから解放されて自由な音楽に到達することができた。やっと歌う音楽が作れるようになったと述べています。それまでの経験がいい形で反映された作品と言えるでしょう。
── 今回は、2014年にホリガー自身の改訂エディションによる初演に出演したフェリックス・レングリとラトヴィア放送合唱団も参加します。
この作品は当初、演奏順や演奏のためのリアリゼーションが演奏者に任されていましたが、2014年にホリガー自らの手により演奏用楽譜がフィックスされたのですね。今回、その楽譜を用いて、ホリガーの指揮で演奏されることにより、現時点での決定版を体験することができるのは大いなる喜びです。将来的には、ブーレーズの作品がそうであるように、第三者に演奏されることによって、作品が作曲者の手から離れ、広がりを見せていくのが望ましいと思っています。そのためにもこの公演が重要なポイントになるのは間違いありません。
東京オペラシティArts友の会会報誌「tree」Vol.121(2017年4月号)より
野平氏所蔵、無伴奏合唱のための《四季》のスコア。ホリガーのサインとメッセージが入っている。
(《四季》は、《スカルダネッリ・ツィクルス》の一部としても、独立した合唱作品としても演奏可能だが、《スカルダネッリ・ツィクルス》においては、現在では文中にあるように2014年に完成した、器楽部分と一体の最新稿により演奏される。)