展覧会について Exhibition
ホワイトデー 恋と感謝と儀礼のシステム
ヴァレンタインデーにチョコレートをもらった男性が、お返しのプレゼントを贈るホワイトデー。そもそも日本のヴァレンタインデーは、製菓会社が販売促進のために欧米の慣習を輸入・変形してつくった商業的な仕掛けによって定着した歳事といわれています。そのお返しをさらに儀礼化したホワイトデーとあわせて、個人の感情と消費を結んだ見事なシステムといえるでしょう。サイモン・フジワラは、私たちが日ごろ無意識に受け止めている「システム」に光を当て、その背後にさまざまな理由、経緯、ときには思惑が存在することを明らかにします。さて、社会に張り巡らされたシステムは、私たちの幸せとどのようにかかわりがあるのでしょうか。
美術館の中に現れた工場の生産ライン 現代の「幸せ」への問いかけ
ロンドンで起こった暴動に参加したことで、液晶モニターの製造工場に送られた少女をかたどった約100体の彫像が会場を埋める《レベッカ》。ほとんどの人が新鮮な牛乳を見たことも飲んだこともない国の絵画工房に依頼して作られた《乳糖不耐症》。フジワラ自身の生い立ちや家族の歴史にフィクションが交えられた演劇的なインスタレーション《ミラー・ステージ》や《再会のための予行演習》。そして本展の会場では、かつて高級品として売買された毛皮のコートの毛を刈り、皮を継ぎ合わせてつくる《驚くべき獣たち》の生産ラインが現れます。
綿密に組み立てられた物語にもとづくフジワラの作品は饒舌で、私たちの興味や好奇心を刺激してやみません。しかし、驚くことにそれらの作品には決まった「結論」が見当たらないのです。観る人ごとに異なる印象を与えるフジワラの作品は、鑑賞者それぞれが自身と向き合いながら、ものごとの本質を確かめていくための「鏡」なのかもしれません。そしてその作品は私たちに問いかけます。今まで信じてきたこととは絶対的なものなのでしょうか。
「正しい」「正しくない」に回収され得ない複雑さの美
フジワラの作品が私たちに与えてくれるセンセーションは、「あたりまえ」の前提が解体する瞬間に生まれます。消費主義、情報化の進んだ現代の社会では、合理性という「正しさ」もひとつの正義ですが、システムが合理的に働いているように思われる時ほど、それがどのようにできたものなのか、そこに置き忘れたものがないかを問いかけることは重要です。
フジワラは、当館が2014年秋に「ザハ・ハディド」展を開催したことに呼応して、白紙見直しとなった新国立競技場を、ユーモアと愛情を込めた彼らしい方法によって作品化します。そこに映し出されるのは、正しい、正しくないの二者択一では回収され得ない、社会の複雑さ、人間の感情、それをありのままに表すことができるアートの力といえるでしょう。
[上]
《レベッカ》2012
Ishikawa Collection, Okayama
imagineeringでの展示風景、2014
photo:koji Ishii
courtesy of the artist and TARO NASU
[中左]
《驚くべき獣たち》2015
courtesy of Marian Goodman Gallery, Paris
courtesy of the artist and TARO NASU
[中右]
《仮面(メルケル)》2015
courtesy of Dvir Gallery
courtesy of the artist and TARO NASU
[下左]
《再会のための予行練習(陶芸の父)》2011/2013
Ishikawa Collection, Okayama
courtesy of Dvir Gallery
courtesy of the artist and TARO NASU
[下右]
《当世風結婚》2015
courtesy of the artist and TARO NASU