難波田史男の15年

プロフィール

難波田史男(なんばた ふみお)

日本の抽象絵画の推進者難波田龍起の次男に生まれ、繊細かつ鋭利な線描と深い色彩による作品の数々を制作。個展やグループ展をとおして注目を浴び、将来を属望されながら、惜しくも32歳で世を去る。15年ほどの制作期間に残された作品は水彩を中心に油彩、版画を含み、その数は2000点におよぶ。「夭折の画家」「青春の画家」として現在も根強い人気を誇るが、2008年に膨大な日記からの抄録(『終着駅は宇宙ステーション』幻戯書房)が刊行され、その思索と制作に新たな光が当てられる。

1941(昭和16)年
4月27日、父龍起(1905-97)、母澄江の次男として東京に生まれる。生涯書物を友として成長するようにとの思いを込め「史男」と命名される。
1949(昭和24)年 8歳
この頃スケッチ板に油彩で自画像などを描く。
1957(昭和32)年 16歳
父龍起も学んだ早稲田高等学院に入学。学院時代は絵画よりむしろ音楽を好む。
1960(昭和35)年 19歳
読書に耽り、学業に虚しさを感じる。早稲田高等学院を卒業するが、画家を志して文化学院美術科(東京・神田駿河台)に入学。石膏デッサン等の授業には関心がもてず、ひとり神田の街でスケッチや古本屋巡りをする。
1962(昭和37)年 21歳
美術批評家東野芳明が史男の作品を評価し、もう文化学院に通うことはないと述べる。文化学院を2年で中退し、独自の制作を旺盛にすすめる。
1963(昭和38)年 22歳
日本美術家連盟の版画工房で池田満寿夫より銅版画制作の指導を受ける。
1965(昭和40)年 24歳
早稲田大学第一文学部美術専攻科入学。久しぶりの学生生活で人付き合いに楽しみを覚える。
1966(昭和41)年 25歳
大学紛争の激化にともない学生間の対立の狭間で苦悩し、その傷は後々まで尾を引くことになる。
1967(昭和42)年 26歳
第七画廊(東京・新橋)で初の個展を開催。
1974(昭和49)年
九州旅行の帰路、1月29日未明、小倉発神戸行きのフェリー「はりま」より転落し消息を絶つ。3月7日、香川県三豊郡(現・三豊市)箱崎沖にて漁船により遺体が発見される。(享年32)


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