本展は、韓国の抽象絵画の流れを19人の作家の作品を通じて見ようとするものです。20世紀の前半には日本の影響を受け、大戦後はイデオロギーの対立による混乱を経験した韓国において、作家が作品の制作、発表を行うこと自体にも困難がありました。また、日本をはじめとする他国の影響下にあった韓国の美術が、自国のアイデンティティを希求する衝動は強固なものであったと想像できます。
韓国の抽象絵画の軌跡は、こうした状況のなかでそれぞれの作家が独自に切りひらいてきたもので、ひとつの流れに規定することはできません。しかし本展の出品作家を大別してその特徴を見ようとすれば、大戦前の日本の制度で教育を受け、日本や欧米に渡って同時代の抽象芸術のさなかに身を置いた金煥基、郭仁植、李世得、大戦後の新しい制度のもとで美術教育を受け、アンフォルメルなど欧米の同時代美術の影響を受けながら、のちに「単色画」とよばれる韓国独自の抽象を生んだ権寧禹、丁昌燮、尹亨根、朴栖甫、河鍾賢、李禹煥、こうした先人の精神を受け継ぎ、現在の韓国美術を牽引する世代、とゆるやかに三つの世代にわけることができるでしょう。
本展では、韓国の豊かな抽象表現のすべてを網羅することは到底できませんが、さまざまな困難と闘いながら獲得された、静謐さと洗練をあわせ持つ韓国独自の抽象絵画の一端をご覧いただく機会となれば幸いです。
金煥基(キム・ファンギ)
KIM Whanki
《作品 20-V-74》
1974
油彩,キャンバス
264.5 × 167.8cm
福岡アジア美術館蔵
© Whanki Foundation/Whanki Museum
韓国の南西部、黄海に浮かぶ島に生まれた金は、当時韓国で美術を志した多くの若者と同様、日本に留学して西洋絵画を学びました。1937年の帰国後も創設されたばかりの自由美術家協会に韓国から参加するなど、日本での発表も継続して行われました。この頃の金の作品は、韓国の事物をモチーフとした具象的な風景や幾何学的にデフォルメした静物が中心で、比較的こってりとした筆致で描かれた作品には牧歌的な雰囲気が漂っていました。
大戦後は韓国の美術大学教授を歴任し、当時の教え子には後に義理の息子となる尹亨根が含まれるなど、後進の指導にもあたりました。国内での評価が高まるなか、56年渡仏、4年に渡る滞在に欧州各地で作品を発表しました。63年の第7回サンパウロ・ビエンナーレに韓国代表として参加すると、翌年にはニューヨークに赴き、終生の拠点としました。
日本への留学で西洋絵画を学び、後に欧米に渡って抽象のさなかに身を置いた金が、韓国独自の抽象絵画を目指すなかで到達したのが、「点画」とよばれる手法による作品です。薄く溶いた青の油絵具でキャンバス全体に点を打ち、線で囲っていくという求道的ともいえる制作方法によって、その画面からは親密な細動と宇宙的な広がりを同時に見てとることができます。
郭仁植(カク・インシク)
QUAC In-Sik
《Work 86-KK》
1986
墨、和紙
199.0 x 300.0cm
東京オペラシティアートギャラリー蔵
photo: HAYAKAWA Koichi
1937年、日本の美術学校で学ぶために来日し、亡くなるまで主に日本を拠点に活動しました。初期にはガラスや石を使った立体作品を制作していましたが、1970年代初頭から和紙と墨による絵画を手掛けるようになります。
郭にとって、墨はもっとも根源的な素材だったといえるでしょう。大邱の商家に生まれた郭は、幼少期に周りの大人が昔ながらに書や水墨画をたしなむ姿を見て育ちました。夏になると、墨壺と筆と握り飯を持って近くの河原に行き、表面が平らな大きな石を見つけてはその肌に絵を描き、川の水で洗い流してはまた描く、といった遊びに日がな一日夢中だったといいます。
和紙に描かれた繭玉のような点は、河原の石のようにどれひとつとっても同じ形ではありません。同時にそれは「何でもあって、何ものでもないもの」を象徴する存在でもあります。両義的なありようを認め、あるいは求め、そうした絵画であろうとする姿勢は続く世代の単色画の作家と共通しています。ひとつ描いては乾かし、またひとつ描いては乾かす、と繰り返された点の重なりは、間に空気を含んだかのような奥行きや浮遊感を得て画面のなかに見る人を誘います。こうした透明な重層は、墨という素材の特性を理解し、生まれ出る形の声を聞きながら次の形を生み出していく郭の制作の果実といえるでしょう。
李世得(イ・セドク)
LEE Se-Duk
《心象》
1991
油彩、キャンバス
227.0 x 182.0cm
下関市立美術館蔵
ソウルに生まれた李は1940年から44年にかけて日本に留学して西洋絵画を学びました。50年代にはには渡欧、アンフォルメルがもっとも盛んだった時期をパリで過ごし、その活動を生で見聞きすることができた数少ない作家のひとりです。
20世紀のモダニズムの歩みとともに、李の制作は具象から非具象、抽象へと移行し、その画面では西洋の美学と韓国の伝統の融合が目指されました。初期には韓国の伝統的なモチーフが具象的に描かれていた画面は、やがてにぶい白や灰色を基調として赤や黄、青、黒といった韓国の五方色が律動を刻む抽象へと変化し、感性と知性のバランスした叙情的な世界を作りだしています。
日本やヨーロッパの事情に通じた李は、各地の動向を韓国の作家に伝える役割も果たし、李を通じて初めてアンフォルメルに接した作家も多く存在します。作家としての活動と並行して展覧会の企画や作家選考にも携わり、同時代美術の評価・促進の面でも功績を残しました。
権寧禹(クォン・ヨンウ)
KWON Young-Woo
《無題》
1982
韓紙
157.0 x 122.0cm
個人蔵、シアトル
Courtesyt of the artist and Blum & Poe, Los Angeles/New York/Tokyo
大学で東洋画を修めた権は、学生時代に洋画のクラスにも出入りするなど、初期より実験的志向を持った画家でした。対象を大胆に省略した抽象度の高い水墨画で1959年に大韓民国美術展(国展)に入選、その後同展の審査員を務めるなど、韓国画壇で活躍するひとりとなりましたが、同窓の徐世鈺が設立した前衛的な水墨画のグループ「墨林会」にも一時期参加しています。
紙と墨というシンプルな素材から生まれる水墨画から一歩進んで、権は紙そのものとの対峙へと向かいます。66年にソウルで行った個展は、紙に穴をうがち、貼り合わせ、あるいは裏から押し出し、と墨を使わない作品で構成された展覧会でした。75年には、韓国の抽象絵画をモノクロームの概念でとらえた最初期の展覧会「韓国・五人の作家、五つの 〈白〉」(東京画廊)の出品作家となり、発表の場を日本へも広げます。
色彩によらず、光と影で成り立つ権の絵画は、地と図という絵画の構成自体への挑戦でもあります。その作品は、あるがままを受け止める東洋的自然観に立脚する精神と、素材に内在する力に手を貸して昇華させようとする作家の行為の融合といえるでしょう。
丁昌燮(チョン・チャンソプ)
CHUNG Chang-Sup
《楮(Tak) No.87015》
1987
楮、ミクストメディア、綿布
227.8 x 162.2cm
広島市現代美術館蔵
西洋絵画を学び、初期には戦後美術の重要な動向であるアンフォルメルに影響を受けた抽象絵画を制作していた丁ですが、70年代に入ると韓国の伝統的な素材である韓紙をキャンバスに貼り付けた作品を手掛けるようになります。以降、韓紙は亡くなるまで40年にわたって丁の作品の重要な素材となりました。
80年代に開始され、単色画の発展の一端を担った「楮(Tak)」のシリーズ、続く90年代に入って手掛けたられた「黙考」のシリーズはいずれも、韓紙を水につけて繊維を分解し、それをキャンバスの上に広げて定着させるという方法で制作された作品です。韓紙は日本の和紙と同様、文字や絵をかくための素材としてだけではなく、障子をはじめ住まいに使われるなど、韓国の伝統的な暮らしに不可欠な材料でもあります。身近であるのみならず、民族を象徴するものである楮(こうぞ)をとおして、丁は物と自身の一体化を願い、意図や作為を超えた境地を目指しました。
「描かずとも描かれ、作られずとも作られるもの——すなわち、それが私の願望である。」作家のノートに記されたこの言葉のとおり、丁の制作とは、精神性と物質性の調和する地平を求め、そこに辿り着こうとする旅路であったといえるでしょう。
尹亨根(ユン・ヒョングン)
YUN Hyong-Keun
《Umber-Blue 337-75 #203》
1975
油彩、麻布
251.3 x 181.1cm
福岡アジア美術館蔵
20世紀後半の韓国では、多くの作家が動乱の時代を厳しい環境のもとで送りましたが、尹の前半生はことさら困難を伴うものでした。ソウル大学校美術大学に入学したものの朝鮮戦争が勃発、反体制のかどによる拘留などによって学業の中断を余儀なくされます。後に義父となる金煥基の手引きによって金が教鞭を執る弘益大学校に入学、ようやく学業を再開させたのは7年余りたった1959年のことでした。
「Umber-Blue」と題した作品は73年に初めて発表され、その名のとおり深い茶色と青の絵具によって描かれています。尹が終生こだわったその二色とは、大地と水、空の色で、それは万物が還る場所であるといいます。初期の画面には垂直の線が何本も描かれていましたが、やがてそれらは合わさって太い線、そして面となっていきました。薄く溶かれた絵具は、下地をほとんど塗らない麻布に滲みこみながら広がっていきますが、作家の手の痕跡を消そうとしたかのような画面からは、絵画の根源に迫ろうとする作家のゆるぎない意志が感じられます。
作家としての出発は遅かったもののその制作はすぐに知られることとなり、単色画の国際的な認知をを高めた重要な展覧会の多くで出品作家となりました。日本では1978年の「韓国・現代美術の断面」(東京セントラル美術館)への出品をはじめ、村松画廊、東京画廊といった韓国の抽象を早くから紹介した画廊において個展が開催されています。
徐世鈺(ソ・セオク)
SUH Se-Ok
《群舞》
1979
墨、紙
143.5 x 282.4cm
福岡アジア美術館蔵
大戦後、大学で東洋画を修めた徐は、伝統に囚われない新しい絵画を目指しながら、現在も墨という素材から離れることなく制作を続ける作家です。大学卒業後は母校で教鞭を執り、李禹煥も徐の教えを受けたひとりでした。なお、国際的に活躍する現代美術家のス・ドホは、徐の子息です。
1959年には前衛的なグループ「墨林会」を設立し、東洋画の新しい地平を探る運動の主導的な存在となります。洋画家の多くが日本を通じて、あるいは欧米に直接渡って欧米美術の洗礼を受け、それを契機に韓国独自の表現を目指したのに対し、徐をはじめとする水墨の作家たちは「内側」から自らを改革する必要がありました。ともすると現代美術の外に位置づけられがちな東洋画がいかに同時代性をもち得るか、一方で東洋画の本質にいかに回帰するか、徐の探求と実践には二重の挑戦があったのです。
《群舞》には手をつないで踊る大勢の人の姿が見られますが、70年代以降、徐は人の形を繰り返し描いています。その画面は絵画であると同時に書に通じるものがありますが、象形が源流の文字を用いる東洋の文脈と、文人画の伝統を踏まえた上での徐の自由な筆づかいは、静かに深く見る人へと沁み渡ります。
朴栖甫(パク・ソボ)
PARK Seo-Bo
《描法 No.27-77》
1977
油彩、鉛筆、キャンバス
194.4 × 259.9cm
福岡アジア美術館蔵
70年代におこった韓国のモノクロームの抽象絵画は、今日では単色画としてひとつのジャンルを築くに至りましたが、その中心的な人物のひとりとして語られるのが朴です。大戦後に美術教育を受け、朝鮮戦争の混乱の時代に青年期を過ごした朴は、アンフォルメルの影響を正面から受けつつ、画壇の権威や伝統に対する抵抗として「現代美術家協会」を設立するなど、韓国の前衛芸術の先鋒を担いました。
1967年、以降一貫して作品タイトルとなる「描法」のシリーズが生まれます。白い油絵具でキャンバスを塗りこめた後、絵具が乾く前に素早く鉛筆の線を走らせたこの作品においては、リズミカルな反復の軌跡がキャンバスに印をなしています。僧侶の修行と、あるいは人間の呼吸そのものとたとえることもできる無我の反復のなかで、朴は自身を空にし、表現という作為からの解放へと自らを導きました。この手法による作品は、75年の展覧会「韓国・五人の作家、五つのヒンセク〈白〉」(東京画廊)にも出品されるなど、精神性をたたえた韓国独自の現代美術として内外で高く評価されました。80年代からは、キャンバスに韓紙と絵具を重ね、指や棒で凹凸をつけた作品のシリーズに着手し、新しい境地を見せています。
多くの国際芸術展に出品作家として選ばれるなど、韓国の現代美術の海外での認知に寄与するとともに、芸術展の選考委員として韓国の作家を国際舞台に送り出したことも功績のひとつです。
鄭相和(チョン・サンファ)
CHUNG Sang-Hwa
《無題 91-3-9》
1991
アクリル絵具、キャンバス
162.0 x 130.0cm
東京オペラシティアートギャラリー蔵
photo: HAYAKAWA Koichi
単色画の担い手のほとんどが韓国にて制作し、自国から日本をはじめ世界へと発信していったのに対し、鄭は海外を拠点にしてこの流れの重要な一員となりました。韓国の大学を卒業後、1967年にはパリに渡り、その後69年からは日本の神戸に在住、77年には再びパリへと向かい、90年に韓国に戻るまで、長きにわたって在外生活を送りました。
他の単色画の作家たちと同様、初期の鄭の作品にはアンフォルメルの影響を受けた多彩色の抽象絵画が見られますが、70年代に入ると色は消え、絵具のみを使って画面を小さな枡目で埋めた作家の代名詞ともいえる作品へと到達しました。この画面は独特の方法で生み出されます。絵具で全面を塗ったキャンバスを絵具の乾燥とともに木枠から外し、キャンバスの裏側に引いた縦横の鉛筆の線に従って折りたたんで絵具に亀裂をつくります。再び広げて木枠に張った後、亀裂部分の絵具を剥がしては絵具で埋めていく、という作業を繰り返します。のちには同じく無彩色の黒や韓国の伝統色でもある青の作品も加わりました。膨大な時間と手間をかけて生まれるその画面は、単色画の特徴のひとつである反復的な作業を通じて獲得される精神性を帯びて、崇高な視覚体験へと導きます。
河鍾賢(ハ・チョンヒュン)
HA Chong-Hyun
《接合 84-2》
1984
油彩、麻布
120.0 x 120.0cm
三重県立美術館蔵
西洋絵画を学び、初期にはアンフォルメルや幾何学的抽象の流れをくんだ絵画を制作していましたが、やがて河の関心は物質とその関係性へと向き、同時代の日本のもの派と親和性の高い立体作品やインスタレーションを手掛けました。この時期には、短い活動期間でありながら韓国の美術界で影響力を持った前衛集団、A.G.(アヴァンギャルド)のメンバーに名を連ねました。
1974年、「接合」と題する最初の作品を発表します。粗く織られた麻布の裏側に強い圧で油絵具を押しつけることで、絵具は織り目をとおって表側に押し出され、表面には漉された絵具が表出します。この独特の手法は、支持体とメディウム、平面と立体といった関係性をゆさぶるとともに、表現と非表現の関係をも問い直すものです。「接合」の語を冠した河の作品は、絵具と麻布といった素材の渾然一体となった状態を表すのみならず、ものやことの主客二元論をその前提に帰って問い、矛盾や対立を受容・融合する東洋的な両義性を表しているともいえるでしょう。
李禹煥(リ・ウファン)
LEE U-Fan
《風と共に》
1989
岩絵具、膠、キャンバス
194.2 x 259.0cm
東京オペラシティアートギャラリー蔵
photo: SAITO Arata
60年代から70年代半ばにかけてもの派の動向の支柱となっていた李は、70年代の韓国の単色画においても、主要な作家のひとりとして、また韓国の作家の日本への紹介者として、中心的な存在と位置づけられます。
ソウル大学校美術大学に入学するも1年で中退して日本に渡り、日本大学の哲学部に転入した李は、以降日本を拠点として、両国の美術界の交流を牽引する存在となります。作品の制作と並行して李は韓国の雑誌に日本の美術動向を書き送り、これらの文章は韓国の作家の重要な情報源となりました。1968年には大戦後の日本で初めて本格的に韓国の同時代美術を展示した「韓国現代絵画展」(東京国立近代美術館)に出品、この展覧会に同じく出品作家として参加した朴栖甫の知己を得ました。
73年、東京画廊にて「点より」、「線より」のシリーズを発表します。韓国での幼少期に繰り返し行った書の練習に立ち返るように絵具を含ませた筆を反復させ、かすれをともなった点と線は取り替えのきかない一瞬一瞬の運動の印として表されています。80年代の「風より」、「風と共に」のシリーズでは、より闊達なストロークに転じて反復のリズムは不規則なものとなり、キャンバスの余白と呼応してダイナミックな空間を形成しています。
崔明永(チェ・ミョンヨン)
CHOI Myoung-Young
《平面條件 99115》
1999
油彩、キャンバス
182.0 x 227.0cm
三重県立美術館蔵
1964年の大学卒業後、20代のうちに国内外の大型展に選出されるなど、キャリアの比較的早い段階から注目を集める作家となりました。70年代には一度大学に戻って修士課程を履修しながら、単色と正面から向き合った「白」と題する連作を手掛け、70年代後半には「平面條件」のシリーズに着手します。初期の作品は、白の絵具でキャンバスの全面を塗りこめた後、絵具が乾く前に表面をわずかに毛羽立たせたもので、絵具の細かなテクスチュアによって磁器や陶器の肌理を思わせる禁欲的な画面が生み出されています。この時期の作品は、83年の「韓国現代美術展—70年代後半・ひとつの様相」(東京都美術館他)に出品され、日本に紹介されました。
80年代には、画面に水平垂直の黒の線が現れます。この線は白の絵具の上に後から引かれたものではなく、画面全体を黒く塗った後、白の絵具を反復的な筆遣いで重ね、その「余白」として残された部分です。白と黒のみの色調で幾何学的なパターンを描いた崔の抑制的な画面は、陰と陽の反転というドラマチックな相をはらみつつ、静かに広がる平面として存在しています。
徐承元(ソ・スンウォン)
SUH Seung-Won
《同時性 99-828》
1999
アクリル絵具、キャンバス
228.0 × 182.0cm
三重県立美術館蔵
大学を1964年に卒業した徐は、69年に組織された前衛集団、A.G.(アヴァンギャルド)に参加し、74年の解散までメンバーとして活動しました。同窓の崔明永と同じく早くから活躍の場を与えられた徐の経歴のなかでも、75年の「韓国・五人の作家、五つのヒンセク〈白〉」での紹介は特筆すべきでしょう。すでに「同時性」をタイトルとしていたこの時期の作品は、白い画面空間に建築のアクソメ図を思わせる幾何学的立体の分解物が漂い、同時に展示された権寧禹や朴栖甫といった年上の作家の、反復する行為が生む工芸的な手触りの作品の対極にあるような、理知的な厳格さを備えたものでした。
徐の作風はその後変化を遂げ、激しい筆致で幾何学的形体を画面いっぱいに描いた時期を経て、90年代後半には輪郭線を失った淡い色面が隣り合い、重なり合うおだやかな画面へと至りました。厳格な幾何学から解き放たれた、やわらかな光の満ちる祝祭的な絵画空間は、画面の外に連続する世界を示唆しながら、キャンバスの外へと広がっていきます。
李正枝(イ・ジョンジ)
LEE Chung-Ji
《O-89》
1989
油彩、キャンバス
60.4 x 72.5cm
福岡アジア美術館蔵
1968年、弘益大学校の大学院を修了し、初めての個展は72年、単色画の先人の多くが展示を行なった画廊である新世界美術館(ソウル)で開催されました。
80年代に入ると日本でも展示の機会が増え、83年、85年の村松画廊での個展をはじめ、86年に福岡市美術館で行われたのち韓国国立現代美術館に巡回した「第2回アジア美術展」(福岡市美術館)、「9・個の視点 日韓女性作家の表現」(村松画廊)などに出品、紹介が進みました。
本展の出品作品はいずれも80年代後半に制作されたもので、韓国の抽象における単色の伝統を引き継ぐ抑えた色調と、反復的な筆遣いによる画面構成が特徴的です。その筆致はリズミカルに動きながらも、規則正しく画面を分割しており、律動のなかに制御のきいた独特の画面を作りだしています。
李康昭(イ・ガンソ)
LEE Kang-So
《無題 - 93009》
1993
油彩、キャンバス
194.0 x 260.0cm
三重県立美術館蔵
作家活動を開始したころの李は、立体作品によるインスタレーションやパフォーマンスを手掛けており、73年明洞画廊での初個展では画廊の中に設営した居酒屋を、75年のパリ・ビエンナーレでは会場につないだ鶏を展示するなど前衛的なコンセプチュアル・アーティストとして知られていました。1971年から73年にかけては、李もまた、A.G.(アヴァンギャルド)に参加しています。
絵画を手掛けるようになってからは、一貫して太筆のストロークによる、運動を感じさせる作品を制作しています。80年代の作品には、鹿や水鳥、小舟といったモチーフが見られますが、次第にそれらは姿を消し、純粋な抽象絵画へと移行しました。
初期の立体作品から現在の抽象絵画をとおして、李の作品について指摘されるのは、時間の内包と完成/未完成の両義をあわせ持つ点です。絵画についていえば、書を思わせる筆致は筆の運動の軌跡を表していますが、その画面はこの世界のあらゆる動きのある一部分を示したものであり、次の瞬間には別の線が、点が加わるかもしれないことを予感させつつ、自律した作品となっているのです。
金泰浩(キム・テホ)
KIM Tae-Ho
《形象 91-902》
1991
アクリル絵具、キャンバス
193.0 x 130.0cm
下関市立美術館
大学在学中からさまざまな賞を受賞するなど、早くから活躍してきた作家です。初期にはスプレー絵具を使った平滑な画面の幾何学的抽象絵画を手掛けていましたが、木版画の制作に力を注いだ時期をはさんで、80年代の終わりにはキャンバスに韓紙の紙片を貼り付けたうえで絵具を重ねた複雑なマチエールを持つ絵画を制作しています。90年代に入ってからはリズミカルな筆の動きをそのまま定着させた絵具のみの作品へと移行、本展の出品作品はこの時期のものです。
金の制作はその後も展開を見せ、キャンバスの全面に絵具を何層も重ねたあと、ナイフで削りながら下の絵具を「発掘」するという技法による作品は、「内在律」と題したシリーズとして現在も継続されています。
年代ごとに作風を変化させながら制作してきた金ですが、その作品に共通して見られるのは画面の質感へのこだわりと、それを生み出す職人的ともいえる技法です。こうした特徴を持つ金の作品には、前の世代の作家たちとも共通する、求道的な制作によって生まれる東洋的な精神性を見ることができます。
崔恩景(チェ・ウンギョン)
CHOI Eun-Kyoung
《Beyond the Colours #14》
1992
テンペラ、油彩、キャンバス
162.1 x 130.3cm
東京オペラシティアートギャラリー蔵
photo: SAITO Arata
生まれ育ったソウルの大学で美術教育を受けた後、東京藝術大学に留学、技法・材料研究室に在籍した崔は、卒業後も日本を拠点として活動する画家です。女流画家協会展、両洋の眼展、VOCA展などへの出品を重ねて1997年にはパリに渡り、数年間滞在して制作と発表を行いました。
90年に着手した「Beyond the Colours」のシリーズは、「色の向こうに」を意味するタイトルが示すとおり、見る人が身体ごと飛び込んで色のなかを遊泳したくなるような広がりと奥行きを獲得しています。大地や水、空といった自然から採られた色彩の画面には、人が生きる上でほどよい湿り気が共有されているかのようです。近づいてみると、絵具の垂らしこみや滲み、かすれといったさまざまな手法が複雑に層をなす豊かなテクスチュアが見られ、画面に静かな動きと空間性を与えています。
李仁鉉(イ・インヒョン)
LEE In-Hyeon
《print on paper - untitled from trompe-l'oeil》
1986
リトグラフ、和紙
64.0 x 50.5cm
東京オペラシティアートギャラリー蔵
1980年にソウル大学校美術大学を卒業後、東京藝術大学の修士、博士課程に学びました。在学中から画廊でいくつかの個展を行うなど日本での発表も行われ、「9つの絵画の鏡」のシリーズはこの時期に制作されたものです。和紙の上に深い青の絵具が滲んだ作品は、釉薬をかけた陶器や絞り染めの布の制作を思わせますが、素材の特質を把握した絶妙なコントロールと、偶然を積極的に取り込む姿勢は李の制作の特徴です。
90年代初期からは、現在も継続している「絵画のエピステーメー」と題するシリーズの制作を始めています。ギリシャ語を由来とし、ミシェル・フーコーが提唱した哲学的概念であるエピステーメー(知の枠組み)を冠したこのシリーズでは、絵画の本質をあらゆる側面から問おうとする作家の姿勢が表れていますが、ここでも抑制された青の滲みは引き継がれています。近年の作品では、キャンバスに絵画としては異質なほどの厚みをもたせて色面を側面まで連続させるなど、絵画の正面性の問題にも斬り込んだ制作を行っています。
尹熙倉(ユン・ヒチャン)
YOON Hee-Chang
《何か》
2000
陶粉、膠、パネル
163.0 x 130.0cm
東京オペラシティアートギャラリー蔵
日本に生まれ育ち、現在も東京を拠点に活動する尹は、作品とそれが置かれる場所の関係をとおして見る人の意識に働きかけます。平面と立体を境界なく手掛けていますが、一貫して土を素材としているのが特徴です。「何か」のシリーズは、採取した土を高温で焼成して陶化させ、細かくすりつぶした陶粉を膠で溶いて描いた作品で、それに先立つ「そこに在るもの」のシリーズに続いて「在ることと無いことをしなやかに行き来する」ことをテーマとしています。
どちらかというと寡黙に見える淡い色の画面は、窓から差す自然光の移ろいに従って図像の見え方が変化し、思いのほか饒舌なことに驚かされます。近年手掛けているシリーズ「Sand River Works」は、川で採集した砂を素材とした絵画ですが、上流の各地から国境や境界を越えて運ばれた地質のブレンドである砂の性質は、私たちの住む都市の成り立ち、すなわち移動する人・もの・情報の集積によって独自の文化が作り出されていることとも結びつけられます。当たり前に存在するばかりに意識の外に置かれがちな土や砂をあえて選び、その性質を丹念に採り出して素材とすることで、日常にありふれたもののなかにまだ見ぬ本質がある可能性を示しています。