Schedule

  • 5月26日(火) ヘルムート・ラッヘンマンの室内楽
  • 5月28日(木) ヘルムート・ラッヘンマンオーケストラ作品展「協奏二題」
  • 5月31日(日) 2009年度武満徹作曲賞本選演奏会

審査員:ヘルムート・ラッヘンマンのコメント

譜面審査を終えて

ヘルムート・ラッヘンマン [作曲家・2009年度武満徹作曲賞審査員]
【総評】

何よりもまず、ほとんど英雄的な孤独の中で大変充実した内容のオーケストラスコアを書き上げる創造性を持った作曲家たちの作品に対し、敬意を表します。

応募曲のスコアを見ながら、私の前に根本的な問題が立ちはだかりました。オーケストラというのは、鳴り渡るトランペット、弦楽器の神秘的で表情豊かな音のタペストリー、管楽器の輝かしくも抒情的な表現、活力みなぎる名人芸の披露、そして打楽器の限りない多彩さといった、多くのさまざまな装いの伝統の中で受け継がれてきた、素晴らしい身振りと情感あふれる語彙を持つ、一つの交響的装置と見ることができます。リヒャルト・シュトラウスと若きイゴール・ストラヴィンスキーのオーケストラ曲はおそらくその最も重要なモデルを示しています。まさに尽きることのない音の宝庫です。しかし同時に、それは規格化された枠組みの範囲内での発展なのです。

早くはおそらくチャールズ・アイヴズの第4交響曲、アーノルト・シェーンベルクの作品16、アントン・ウェーベルンの作品6と作品10、そして間違いなくノーノ、シュトックハウゼン、クセナキス、リゲティ、フェルドマンまでの戦後の先駆的オーケストラ曲などが、こうした規格化された‘交響的で強固な’枠組みを−美学的な意味においてだけでなく−脱却し、オーケストラそのものを、40人、50人あるいはもっと多くの高度にプロフェッショナルな個々の人格、個々の責任、個々の頭脳と精神による、非常に複雑な有機体として再定義しました。ここでいう個々とは、それぞれの作品とそれぞれの務めのために様々なグループを形成すべく協力し、作曲家たちを支援し、新しい地平の探求において、常に新しいサウンドと表現世界を発見しようとする革新的精神を持ち、常に学ぼうとする、恐れ知らずで永遠に若々しい個々の奏者のことです。

今回私は、交響的精神に基づいてプロフェッショナルらしく書かれたオーケストラ曲か、あるいは−私自身の性向(nature)に従って−並外れたリズムと音響的要求を伴う、より実験的な(昔ながらの演奏活動の枠内にいて、より古い時代のオーケストラのスタイルの方が身に馴染んでいそうな奏者たちには、適合しないような)オーケストラ音楽か、どちらかを選択しなければなりませんでした。

私は思いきって自らの性向(nature)に従うことにして、まず4曲を選びました。それらの作品に於いては、個々の奏者が異例の奏法に直面して、自らの実験精神や忍耐力を試され、また、リズムの感覚や精密な音響センスという点でも、挑戦にさらされることになるでしょう。但し、あと1曲だけは、それらとは別の基準で選びました。その作品は、他の4作品とは大きく異なり、従来の音楽美学への親近性を帯びているのですが、それと同時に、(後述するような)奇妙な一面も併せ持っているのです。

【本選演奏会選出作品について】
■Crónica Fisiológica Universal
この曲の譜面を一見すると、「音は疎(まば)ら」「五線は役立たず」という印象を受けます。五線に記譜し難いのは、通常とは異なる楽器の扱い、ピッチの確定しないノイズ、歪んだ音響のゆえであり、また、音数が少ないのは、明瞭な表現・構成への志向のためです(特異な音響の強度を損なわないように、他の音響と多様に絡み合わせることを敢えて避けています)。ここで私たちが出会う音の風景に於いては、一般の慣習から離れた演奏法があまりに多く使われているために、本来は通常である楽器音の方が、かえって見知らぬものに感じられてきます。この作品は(次の Creatura temporale もそうですが)「危険な作曲法」による作品、と言えるでしょう。この道が危ういのは、まずは楽器の演奏法が常に歪みを同伴しているからであり、それらの特殊奏法は、最上の注意と精確な音響感覚を以て、繊細に実現されなければなりません。さらに、このように育まれる作曲世界の魅力も、全曲の構成に説得力を持たせて明らかに新しい音の文脈を成立させないかぎり、あっけなく失われてしまう危険と隣り合わせになっています。しかしながら、これらの障壁に関心があるからこそ、むしろ私はこの音楽の実演に接してみたいと感じるのです。
■Creatura temporale

作曲という作業は、ただ単に既存の音響を組織して音楽を構成する、ということに留まるものではありません。それはむしろ、音響そのものを新たに創り出すことです。そして作曲者は、既存の音響も新たな音響とともに定義し直すことにより、各音響に新鮮な個性を獲得させることを目指して、精緻な文脈構成を企図するのです。その結果として、「音楽」という概念自体も、絶えず更新される運命にあります。

私たちが「音響」と呼んでいるものの内部構造に目を向けると、そこには複雑に錯綜する動きの諸ベクトルがあります(このことは音楽に於いて、また例えば印象派の絵画作品に於いても明瞭に経験されます)が、それはともすると以下のような考え方につながります:個性的で独自性のある音響を創出するためには、群集合のような音の動きが必要である、と・・・。しかしながら、そのような音響内部の音の動きにさらに目を凝らすと、それらは既によく見知った楽器音である場合もあれば、その主要部分が明らかに未知に近い異化された音である(この作品のような)場合もあるわけです。そうなると、音楽の聴取とは、作曲者が導きのために用意した動線のネットワークを頼りとして、言わば聴覚の顕微鏡を通して、作曲者の想像力が生み出した音響の、その内部構造を熟視することに他なりません。それはまさに、さっと一瞥しただけでは全貌がとらえきれず、意識を集中させて徐々に視線を動かしてゆく時に、ようやく像を結ぶ、ひとつの景観を思わせます。時間は空間に近いものとなり、私たちはその中を探索し、聴取体として滑空してゆきます。このような想像から生まれた音響を共有する体験は、人為的に整えられた構成に基づいて進行しますが、この「構成された進行」が、「形式」です。私は《Creatura temporale》という作品を、以上の方向から解釈し、また、この作品のそのような面に、発想上の魅力を感じています。

付記
ゲオルク・ビュヒナーの戯曲作品「ヴォイツェック(ヴォツェック)」に於いて、主人公ヴォイツェックは、医師から「自然の(肉体的)欲求」に負けてしまうと非難されて、以下のように言い返します:「だって、そういう時には、そういう感じになっちゃうじゃないですか。わかりませんか? よくある型(パターン)にハマるだけですよ。」しかも同じシーンで、彼はこうも言うのです:「浜辺にいる海綿動物、あれ見ましたか? あの丸いラインの、あの感じ、あの形(フィギュア)です!あの形の意味を本当にわかる人、いないんじゃないですかね?」

候補作品のスコアを研究している間、上記2番目の引用部分が、私の頭から離れませんでした。自然は構成された形で私たちに提示されますが、それを私たちは、感覚的に(五感を通して)経験することもあれば、超感覚的に(観想的に)経験することもあります。そして、私の理解がある程度正しいと言えるなら、このような自然への敬意に満ちた、その構成(型・形)への洞察をも内包した眼差しこそ、研ぎ澄まされた五感とともに豊かな観想性も不可欠な、日本の伝統美術に顕現される世界認識の眼差しでありましょう。

■ZAI For Orchestra

「作曲とは、楽器を製作する作業である」と定義してみます。本作品の作り手は、文字通り想像上の楽器を製作し、かつ、その楽器を8つのマニュアル(オルガンで言う「マニュアル」、つまり音色等を異にするべく分割された「パート」のこと)に分けて演奏してゆきます。しかし終局に至ると、この「楽器」が大きく歪んでしまうのです。そしてこれらの「マニュアル」は、実践的にはオーケストラを以下の8つのパートに(まずはスコアの上で、次に空間的にも=舞台上で)分割することによって造形されます。[1]…舞台奥に位置する17個の弦楽器 [2]…指揮者の足元左側に弦楽四重奏 [3]…指揮者の足元右側に13個の弦楽器([2][3]を合わせて17個となり、[1]に対応します) [4]…舞台中央にもう一つの弦楽四重奏、及び1管編成の木管と金管 [5]…舞台左手前、壁際の角度の付いたところに、[4]と類似した編成の木管とハープ、さらに弦楽器群 [6]…[5]のちょうど反対側、右手前にも、同様の木管群、及び打楽器 [7]…[3]と[6]の間に、ピアノ、トランペット、トロンボーン、コントラバス、打楽器(これらは一種の「ジャズ・バンド」になっています) [8]…[7]とちょうど反対のあたりに、4個の金管と、打楽器、コントラバス(これは「小さめのビッグバンド」)。

各々のパートは、明らかに他と異なるように設定され、殆ど室内楽のように、しかも常に新しい切り口を以て、別のパートと結び付いたり交わったりします。これにより音楽に活気がもたらされ、表情に富む楽想も頻出して、言わば用意周到に構成された花園が出現するのですが、この表現美が合計2度、「無礼講」へと変質します。1度目は、出典のぼかされた引用が、カオス状に混濁して:マーチ、ディキシーランド、ワルツ、等々(もちろんチャールズ・アイヴズを想起します)。2度目は、いったん当初の、構造を重視しているように見える語法に戻ったあとで、奇妙なノイズに(コンサートホールで鳴る音楽の中で最もノーブルと言えるものに対してでさえ、私たちの社会がそれを以てして反応するノイズです)。

この楽曲の大半の部分に備わる、もともとの印象的な造形美がある一方で、他方では文明社会と呼ばれるものが吐き出す、あまりにも身近な騒音(また躁音)へと、当初の造形が突如崩落してしまうということ、この点が私の注意を惹きました。純粋に音響的な、繊細に区画整理されながらも奥行きの浅からぬ構造があり、それに対峙するかのように、美学など一顧だにせず、アナーキーに近い無秩序無法地帯が存在して、これら双方が、弁証法の俎上に平気で座しています。しかも両者ともが、公共の場に於ける私たちの日常の振る舞いを反映した、実のところ同じように既製品(レディメイド)化された音楽形式から成り立っているのです。

■ヘキサゴナル・パルサー

この作品に於いてもまた、オーケストラという装置は、音楽の構成を作曲者が熟慮するがゆえに、4箇所(A, B, C, D)に分けて配置されます。Cグループは2人のピアニストと2人の打楽器奏者から成り、舞台前面でソリスト的に振る舞い、その背後に、残り3つのグループが殆ど均等に配置されていて(但し1箇所だけ3人目の打楽器奏者が配されます)、その各々が木管・金管・ソロ弦楽器群で構成されています。中央のグループのみは、コントラバスとハープも加わり、以上全てが1つの舞台に乗っている状態です。

この曲を表面的にとらえると、以下のような音楽の範疇に入るかもしれません:動的なリズムが活力豊かに、しかし何度も切断されながら、網の目のように広がってゆく音楽。あるいは、表情豊かな音型を多々含む一方で厳格なメカニックも追及されている、ヴィルトオーゾ性に富む音のテクスチュアを持ちつつ、そのテクスチュアを断続的に(律動と拍動を絶えず変化させながら)変容させる、ひとつの枠組みとなっている音楽。他方で、この音楽の内奥には、表現力を持って微妙に揺れる運動が潜んでいて、その力こそが、この作品全体に形式感を与え、音楽を息づかせているのです。

■果てしなき反復の渦 ─ 混沌の海へ

「自然は、ひとつの構成(形・型)として経験される」と考えた場合、その逆はどうなるでしょうか? 「構成(形・型)は、ひとつの自然として経験される」と言えるのでしょうか? 自然、また自然の力を想起させたり、あるいはその模倣さえ試みるような音楽作品について、私は通常懐疑的な姿勢を取っています。自然のように茫漠としたものを、音響のように限定された言語で十全にとらえるには、音楽は演奏作法(実践上の規則や慣行)に寄りかかりすぎているからです。たしかに、ヴィヴァルディの「四季」、ベートーヴェンの「田園交響曲」に於ける「小川」や「嵐」、ワーグナーの「ラインの黄金」冒頭部(5分間ずっと変ホの長和音だけとは!)、ドビュッシーの「海」、ラヴェルの「海原の小舟」、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」、そして観方によってはリゲティの「アトモスフェール」も、最強度の表現力を備えた奇跡のような作品と言えるでしょう。そうしてそれらは、「絵画的描写というより感情の表出」という、ベートーヴェンの言葉を体現しています。それにも関わらず、元来は自然の景観として経験される事象が、コンサートホールに持ち込まれて音響として調理されてしまうと、なにか自然が飼い馴らされてしまったような印象が混じり込んでしまいます。それらの作品のどれを取ってみても、そこで私たちが経験するのは、まさに自然と構成(構造・構造物)の弁証法(対置が生み出す合成・止揚)です。私たちが問題にするのは、自然の諸力の描写を、作曲者が如何に忠実に成し遂げたか、ではありません。結果として産み出される音楽が、如何に生命感を放ち、美しく、新鮮な魅力に富むか、を期待しているだけなのです。ここで私が論じようとしている本候補作は、海洋の持つ自然の力、という観念から(題名から推測するかぎりは、また、私がスコアから受ける印象から言っても)インスピレーションを得て書かれています。そして、「オーケストラそのものが即自然現象になり、その結果、他の諸現象など忘れてしまって気づきさえしない」、と言えるほどの音響風景を創り出しました。作曲者は常套的な器楽作法も躊躇なく多用する(「濫用」されるハープのグリッサンドや金管のファンファーレ、「度重なる」打楽器のリズムパターン、等々)のですが、その全てを、技術的に観ても創作性という点から観ても、究めて執拗に遂行していることが、私の好奇心に訴えてしまいました。それで、この音楽は演奏機会を獲得するべきだ、と私も考えたわけです。

こういう訳で、私がこの譜面(極めて直截的で、書法技術の修練が最終的に強さに帰結した、とでも言えるような、私自身の作曲美学からは相当に懸隔のあるスコアです)を演奏のために選択させていただいた、という事態を逆に私の側から見れば、私自身が、自らの視野を越えてものを見ることを試み、私にとっては現状では疎遠であり、私なら避けるであろうアプローチを採っているものに対して、試しに一考の価値を置いてみる、ということを意味するでしょう。

2008年12月
ヘルムート・ラッヘンマン

 

翻訳
【総評】…東京オペラシティ文化財団、後藤國彦
【本選演奏会選出作品について】…後藤國彦