© Marco Borggreve
“アサイラ Asyla”というのは、「捕らえられることがない」という意味の語源をもち、「安全な場所」「精神病院」「亡命」などと訳される“asylum”の複数形。作曲者のアデスは、音楽外の要素を暗示するためにこのタイトルを付けたと述べているのだが、読み解きのヒントは第3楽章「エクスタシオEcstasio」に隠されている。
この楽章は、2020年現在でも若者をクラブで踊らせ続けるEDM(Electronic Dance Music/バスドラムの4つ打ちを基調とする電子音を用いたダンス音楽の総称)を大胆に管弦楽へ取り入れたことで知られる。EDMのはじまりは1980年代終わりの英国。アシッド・ハウス(アシッド=幻覚剤LSD/ハウス=ハウス・ミュージック)というEDMの一種を、クラブやレイヴ(野外パーティー)において大音響で鳴らし、若者たちが踊り狂ったのだ。しかしレイヴにおいてドラッグを使用する若者が多発すると社会問題に。1994年、法規制がなされることになると若者たちは反対のデモをおこなった……こうした時代背景のなか、1997年に作曲されたのが《アサイラ》なのである。
そう考えてみると第3楽章の副題は、単に「恍惚」という意味だけでなく「(合成麻薬MDMAの俗称)エクスタシー」をも仄めかしているのは間違いない。音楽そのものも規則的な4分の4拍子が基調になりつつ、少しずつズレていくのは、ドラッグによる幻覚作用を音楽に置き換えたものだと考えられる。かつてアヘン由来の幻想をテーマにした交響曲がベルリオーズによって書かれたが、《アサイラ》も同じ文脈に位置しているといえるだろう。とはいえ誤解がないよう付記しておくが、アデスはドラッグ・カルチャーを賛美しようとしているわけではない。
第3楽章のクライマックスで一瞬静かになり、アップライト・ピアノで調律の狂ったような和音(4分の1音[半音の半分]、低いピッチで調律されている)が聴こえた直後、まさにエクスタシー(恍惚)の頂点に達するのだが、その後に漂うのは虚無だ。そして虚しさを引きずったまま始まる第4楽章でも、同様のクライマックスが形作られるが、今度はマーラーの交響曲第10番の第1楽章を思わせるような破滅的なサウンドが鳴り響く……。
ここに“アサイラ”という単語の意味を重ね合わせてみれば、若者のクラブ/レイヴ・カルチャーは「狂った人々の集まり」なのか? それとも「自分らしくあれる聖域」なのか? という問題意識が込められた作品なのだということが見えてくる。もうひとつ重要なのが、アデスは自身がゲイであることをカミングアウトしており、かつてクラブはセクシャルマイノリティの人々にとって「自分らしくあれる救いの場」でもあったという点だ。
そう考えてみると第1楽章は、様々なマイノリティの人々が社会に対して感じる実存の不安(ここでも調律を下げたアップライト・ピアノが重要な役割を果たす!)に始まり、徐々にダンスという自己表現手段を獲得するも、その自由が脅かされるとトランペットによって怒りが表明され、何としてでも踊る自由を守ろうとする……ような音楽としても聴くことができる。
続く第2楽章には当初、「ヴァチカン」という副題が付けられており、中間部には自作の聖歌(フェアファックス・キャロル)を引用していることからも分かるように、教会(大聖堂)に「安全な場所」としての期待を寄せるが、キリスト教はセクシャルマイノリティたちに優しくなく、段々と怒りに満ちた音楽へと転じてしまう。だからこそ、あの第3楽章が続くのだと思えば、ドラッグと共に踊り狂うしかなかった若者たちの気持ちに、胸が締め付けられるほかない。1971年生まれ、作曲当時26歳のアデスだからこそ書き得た傑作《アサイラ》は、世界各地で「誰もが自分らしく自分自身のままで生きやすい社会を目指そう」という声があがる現在でも、強いメッセージを伝えられるはずだ。
コンサート前に予習をするのであれば、まずはアデス本人がロンドン交響楽団を指揮した録音をお薦めしたい。ディスクも発売されているが、Naxos Music Library、Spotify、Apple Musicなどの各種音楽ストリーミングサービスで聴くことが出来る。ここからは、この自作自演盤のタイムをもとに、注目ポイントを追っていこう(なお以下の内容は一部、Edward Vennの分析を参照している)。
【第1楽章】
[0'03"〜/前奏]音程のあるカウベル(スイス・カウベル)と、調律が4分の1音下げられたアップライト・ピアノが混じり合って不安定な響きを生み出し、陰鬱でダウナーな気分を描き出す。
[0'40"〜/主部A]まずホルンが主題を吹きはじめ、続いて[1'21"]からは弦楽器群、[2'20"]からは高音で奏されるチェロ独奏を挟んで再び弦楽器群、[2'32"]からは木管楽器とヴィオラ……という風に、主題を様々な楽器へ受け渡してゆく。その間、踊りだしそうなリズムが何度か挿入されるも、残念ながら持続せず。[3'04"]からは再び冒頭のダウナーな雰囲気に戻ってしまう。
[3'19"〜/中間部B]暴力的なトランペットが登場して新しいセクションに突入。[3'55"]からはハイハットのリズムが刻まれ、いよいよ踊りはじめるかと思いきや、暴力的なトランペットなどに遮られてしまう。
[5'00"〜/主部A']ホルンに主題が回帰するも、旋律は短く切れ切れになってしまい、全てが散り散りになったまま終わってしまう。
【第2楽章】*当初は「ヴァチカン」という副題が付けられていた楽章
[0'00"〜/前奏]第1楽章の冒頭よりも音数は少ないが、スイス・カウベルと調律を下げたアップライト・ピアノに加え、ここでは正しい調律によるアップライト・ピアノ、チェレスタ、ハープも重ね合わされることで、平衡感覚が失われていくかのような音響を生み出している。
[0'35"〜/A]バス・オーボエが野太い主旋律を歌うところからが主部となる。この主旋律は[1'00"]からはクラリネット、[1'26"]からは再びバス・オーボエ、[1'58"]からはフルートとヴァイオリン群と受け継がれていき、そこに同じ旋律をもとにした対位法声部が加えられていくことで、幻覚のような効果をあげている。
[2'46"〜/B]優しく響く鐘のような音色が聴こえるところからが中間部。アデス自作の聖歌《フェアファックス・キャロル (The Fayrfax Carol)》から引用した和声進行をもとにしている。
[4'34"〜/A']中間部がクライマックスを迎えるなか、ホルンの高音で主部の主旋律が回帰。[5'10"]からは前奏の要素も再現されていく。
[5'39"〜/後奏]やはり最後は第1楽章同様、それまで登場した旋律が散り散りになり、救われぬまま突然音楽が切れる。
【第3楽章「エクスタシオ」】
[0'00"〜/前奏]踊りだす前の期待に胸が高鳴り、[0'22"]からはトランペットを軸に反復される新たなフレーズが中心となっていくが、寸詰まりのようなリズムのため、どこか違和感が拭いきれない。
[1'57"〜/A]4つ打ちのリズムが登場することで、いよいよ本格的に踊りはじめる。
[2'26"〜/B]4つ打ちのリズムが止まり、キャッチーなフレーズが反復されていく。
[2'56"〜/B+A]AとB、2つの要素が合わさることで盛り上げていく。
[3'27"〜/C]テンポは落ちないが、いわゆるチルアウト(冷却)的なセクション。
[4'25"〜/D]シンプルな旋律が繰り返されることでクライマックスを形成する。
[4'40"〜/D+C]そこにCの和音の刻みが重なり合うことで、パーティーが最高潮に達する。
[5'08"〜/後奏]これほど盛り上がったにもかかわらず、この楽章でも最後は、これまで登場した要素が段々と散り散りになっていく。抵抗するかのように藻掻いてゆき、[6'40"]で調律を下げられたアップライト・ピアノが聴こえた瞬間、絶頂に達する。だが直後に虚しさが漂いはじめる。
【第4楽章】
[0'00"〜/A]第3楽章ラストの虚無感を引きずったまま、木管の下行フレーズが繰り返されていく。
[1'14"〜/A+B]そこにオーボエ群の旋律(第4楽章の主題)が重ねられていく。
[1'42"〜/C]再び第2楽章の冒頭のようなサウンドが再現される。
[2'19"〜/C+B]そこに低音の木管と弦楽器により主題が重ねられていく。
[2'46"〜/A']楽章冒頭を変奏したものが登場。
[2'58"〜/D]第1〜3楽章に登場した要素が展開され、少しずつ音楽を盛り上げていく。[3'40"]あたりからバスドラムが段々と存在感を増していき、第3楽章の絶頂が再登場するも、今度は破滅的な音楽へと転じてしまう。その後、第4楽章の要素が散り散りに再現されていく。
[4'30"〜/後奏]第1楽章の要素が再登場してゆくと、少し明るい雰囲気を醸し出すようになるのだが、あっという間に終わってしまう。
この通り、構造自体はそれほど複雑ではないのだが、複雑に細かい音符が入り組んだ音楽の、どこに注目して聴くべきなのか?……が意外と分かりづらいかもしれない。だからこそリスニングガイドをもとに、注目ポイントを理解しておけば、「トーマス・アデスの音楽」公演を、最大限楽しめるようになるはず。この傑作の魅力が、多くの人々に理解されることを願ってやまない。
(無断転載禁止)